鋳物師の沿革

鋳物師の由来は、大祖石凝姥命尊宝鏡鋳造より創まる。

鋳物師御用始は、近衛天皇の御宇、仁平三年中、宸体御不慮の砌、科らすも宣言を蒙り、祈念式を以て鉄燈籠各々一基を鋳造、凡そ百八基献納仕、爾来御例規となり、御代々御即位大礼は勿論、年頭・八朔等の拝賀として、各鋳物師累代更番を以て御燈籠を鋳造、連綿として献納仕来り、且つ臨時御用勅役相勤め、既に近代に至りて、文久二年正月、御庭御用として鉄燈籠を調達仕、明治革政に至り御用を絶へたり。

表菊御徽章を提燈に用来りたるは、四条院天皇の御宇、天福元年五月後下賜なりしより、維新に至り御停止となれり。藤原姓を賜りたるは、近衛天皇御不慮御平癒の後より始まる。

京都御職司真継能登守は、燈籠鋳造御平癒後、禁庭に宿直仰せ付けられ、其後二条天皇の御宇、平治元年、鋳物の調進勅役相勤候節、永々蔵人所供御人惣官鋳物師と宣下を蒙り、全国の鋳物師を支配せり。

大山鋳物師の創元は、往古の事蹟詳かならすと雖も、古代を見、或は古老の口伝、其鋳器の作名を探り推考するに、羽黒山の御用を勤め、大山は元と尾浦と称し、武衡・家衡滅亡の後、頼朝の臣武藤左衛門尉景頼入城ありしより、武藤家の御用職となり、鋳物場地面を賜り、町名を銅屋町として、石凝姥命尊を祀り、秋葉神社を建立、一町の氏神とす。鋳物師頭を伊藤助右衛門に命せられる。相次て、京都職司真継家より、荘内田河・飽海、秋田由利郡の鋳物師支配を仰付らる。其後武藤氏没落後、最上義光の所領となり、相継て元和八年酒井宮内大輔忠勝鶴岡に入城す。寛永の頃、知行五十石を賜り、同所七日町広済寺辺、元と柳ノ内と云ふ所に居住、御用を勤めたり。

其後、弟伊藤四郎右衛門に譲り、大山に帰り、次代伊藤善兵衛継て、大砲其他の武器鋳造す。其模様図今に存す。其子善兵衛、宝永の頃秋田佐竹家より御用職仰せ付けられ、砲類器具を細工、同所地方の社寺の鋳造品あり。其後帰郷して祖先の家名を継ぐ。数代を経、明和二年、松前家の御用職を仰せ付けられ、知行七十石を賜り、文政三年郷里大山に帰る。其年間は、弟子鋳物師拾数名の内より座法を維持したり。其子孫連綿と業を継ぎ、当時は電動力応用ダライ盤二台を据へ、煽風器・溶解炉等を設け、青銅及鉄器類の製造盛大なり。